デサイロでは、2022年10月よりスタートした第一期の研究者伴走支援プログラムにおいて、人類学者の磯野真穂さん、哲学者の柳澤田実さん、社会学者の山田陽子さん、メディア研究者の和田夏実さんの4名とともに、「いま私たちはどんな時代を生きているのか」を探りました。その4人の研究に共通するテーマとして「生の実感とリアリティの探求」を設定。その成果が、2024年4月13~14日に開催された、「研究」と「アート」が交差する2daysイベント「DE-SILO EXPERIMENT 2024」や、論集『生の実感とリアリティをめぐる四つの探求──「人文・社会科学」と「アート」の交差から立ち現れる景色』につながりました。4人の研究者が設定したテーマは以下のとおりです。
21世紀の理想の身体|磯野真穂
人間は、自分の身体に必ず手を入れる。その理由は手を入れると安心するから。そのままだと不安だからだ。「ありのまま」といった言葉が近年もてはやされているが、現状はその逆である。毛髪再生医療や美容整形、医療痩身といった言葉に代表されるように、時に医療の手も借りながら、私たちは自分の身体を加工する。加えて、身体のデジタル化を容易にしたSNSやメタバースなどのIT技術の進化は、他者に見せるための身体変工の幅を広げ、かつ容易にした。しかしここまできても、身体変工はとどまることがない。あるひとつの問題が解決されても、次なる問題が発見発掘され、私たちはその修正に追われるからだ。本プロジェクトでは、身体変工を取り巻く技術、情報、さらには「問題のある身体」を「理想の身体」に作り変えたいという欲望を支える分類思考を中核概念とし、多種多様な身体変工を俯瞰的に捉える。その作業を通じ、21世紀の理想の身体とその裏にある不安、さらにはその身体に賭ける希望のかたちを浮かび上がらせてみたい。
「私たち性 we-ness」の不在とその希求|柳澤田実
政治の不在以前の「私たち性 we-ness」の喪失こそ、今日の日本人が置かれた状況ではないだろうか。日本社会における個人主義や自己責任論、オタク的な個人消費の普及は、新自由主義を政治家から吹聴されたからというよりむしろ、多くの日本人が「私たち」である感覚を持てず、「私」とそのささやかな延長しかわからないという状況から来ていると予想する。「私たち」という実感を持てない日本人は、国のために戦わないだろうが(ナショナリズムの不在)、同時に他人を助けること(道徳)にも無関心で未来の子供たちために投資すること(長期的展望)にも乏しい。「私たち」なき「私」は、多くの場合外部も超越性も持たないため、実は相当脆弱で、自分が愛着する対象によってかろうじて自己を立てることしかできない。他方で今日の様々なジャンルでのファンダム形成、ヒップホップの流行、キリスト教福音派の若年層への拡大には、どこかで超越性に基礎付けられた「私たち」への渇望が見え隠れするようにも感じる。こうした日本人の「私たち」感覚の喪失と掘り起こしを、イメージのアーカイヴとフッテージによって顕在化させ、他者と共同する中間領域がすっぽりと抜けた2020年代の日本人の「セカイ」を作品として記録し、希望的には「私たち」が生成する兆しを指し示すことを目指す。
ポストヒューマン時代の感情資本|山田陽子
現在、多くの職場で、感情を抑え込んだり無かったことにしたりするのではなく、セルフコントロールに基づき上手に活用することが、生産性やモチベーションの維持に役立ち、自己の成長や人脈の拡大につながるとの考え方が一般化している。アンガーマネジメント、心理的安全、レジリエンス、「ファンベース」など、人びとの共感や愛着や信頼を原資にするビジネスモデルやマーケティングの手法、感情管理の技法を活用した人的資源管理や職場のリスク管理も顕著である。一方、家庭や親密な領域では、公正で公平な家事育児の分担やシャドウワークの可視化と支払い要求、時間の効率的な使い方、教育投資とリターンの予測、AI搭載マッチングアプリを介して効率よく相手に出会いたいという欲望など、私的で情緒的なつながりの範疇とみなされてきた事柄が合理性や効率性、公平性や正当性という基準によって測られ、査定されるようになっている。このように「経済的行為のエモーショナリゼーション」と「感情生活の経済化合理化」が同時に進行する動的プロセスをイスラエル=フランスの社会学者エヴァイルーズは「感情資本主義」と呼んだ。本研究では、感情資本、「エモディティ感情商品」、「ネガティブな関係性」をキーワードに、合理的なものと感情的なものの結びつきを解きほぐす。経済発展と技術革新が人間の感情や他者とのコミットメントを巻き込んだ結果、今何が生じているのかについて考察し、その未来を展望する。
「生きているという実感」が灯る瞬間の探求|和田夏実
人には誰しもの中に、ときめきを覚え、無我夢中になり、それに向かって走っていきたくなる衝動というものが存在する。もしくはその種が、それぞれの中に存在している。存在理由、生きている意味、そういった言葉ではなく、はりあいという、何かとの間で芯のあるぱりっとした感情と衝動が走り、自分の中でそうある自分自身、そこに没入している状態のことを心地よいと感じること、そうしたいきいき(LIVELY)とした状態はいかにして生まれうるのだろうか。本研究では、独自の世界認識や設定をもとにそれぞれが構築する内言のありようを探りながら、自分をとりまく世界から手応えを感じ、自らの中で種を咀嚼し、大切に育て、身体の中に息づくものとして耕す方法について検討する。いきいきとすることが描きうる世界の未来、ときめき自体がもたらす世界の開拓について、極限状態を起点として描きながら、一人ひとりの内なる世界が描く未来を探求する。